2013年11月1日金曜日

原風景


愛しいスーパー赤ちゃんがズリバイからハイハイにバージョンアップし、つたい歩きをマスター、ついに歩きだしています。3か月位しか母親をしていないつもりが、もう息子は一歳。部屋のアップデートと親のアップデートは後手後手になりながら、更新中です。

制作がなかなかままならない日々なので、自分の頭の整理と思考のウォーミングアップのためにも少し前作について書いておこうと思います。次の一枚のため。


妊娠中に描いた「すでに変容してしまった昨日という世界の中のあなたがみた私」という長いタイトルの作品、「となりのひと」展に出品後、もう一度どこかに出品できないか…と思っていました。大作なので、なかなかサイズの合うコンペもなく・・・そして、よくよく考えて、全道展に出品しました。

 全道展で描きつづけながら教師をしていた祖父が亡くなってから、だしたい気持ちが湧いていたのですが、今回出品してみて気がついたのは、幼い頃から祖父の展覧会を観に行って、たくさんの絵がかけられた壁に囲まれた空間は自分の原風景だった、ということ。会場にいて、ものすごくノスタルジックな気持になりました。小さい私は大きい絵に囲まれるのは楽しかったなぁ、絵で壁が埋め尽くされていて、たくさんの入口があるみたいだなぁ、とかワクワクしていたのをかなりリアルに思いだしました。この2年間の間、父が亡くなり、次は義母、それから祖父。三人に押し出されるように子供がお腹に宿りました。本当に希望の光みたいな赤ちゃん。
 出品作の画中の人物は おなかの中にいた子供がみたかもしれない私の姿。それから、父が見守るようにみている母、のようなイメージも。

実際に参考にしたモチーフは、バスの窓越しに目があった見知らぬ人との一瞬や、洗濯物を干しているマンションの人と目があったワンシーンの統合なのだけれども。できあがった絵の窓は、幼少の頃に住んでいた実家の大きな窓にかなり近くて、かなりびっくり。アートセラピーが力を発揮するのは良くわかる。眠っている感覚や記憶、潜在意識が、絵のようなツールはやっぱりものすごくでるよなぁ。泥臭いなぁ。


妊娠中に「うまれる」というドキュメンタリー映画をみました。映画の中に、生まれてくる子供が天国から自分の親や家庭をみて自分で選んで生まれてくる、というエピソードが頭に残っています。選ぶ時はどんなシーンをみていたのかな。私のような人間を母に選ぶ息子はかなり勇気ある。
それから、逝くには早すぎた父が、きっと天国から母をみているだろうな、という想い。

日記にしたためるより、ネットワーク上にアップする方が天国に近い気がするのはなんだろう・・・テレビ電話で亡き家族と会話する、みたいな表現、よく昭和のテレビではあった気がする、そういう中途半端な古臭さが自分にあるからなんだろうなぁ。



0 件のコメント:

コメントを投稿